カリントウ意外史

カリントウ意外史

●わが国の歴史に菓子が登場したのは遣隋使(574年~620年頃)によって大陸から直接輸入されるようになったのが始まり。

●時代が下がって奈良時代に伝来した8種の唐菓子と14種類の果餅のうち、もち米、大豆、小豆、うるち米などの粉をかぶと型の餅にして、油で揚げた”ふと”とか、小麦粉を捏ね細長くして結び緒のような形にして油で揚げた”かいなは”などが今日のカリントウに近い菓子である。

●遣隋使によって伝来した菓子は京都を中心に高級菓子として発達、奈良・平安時代(710年~1200年)になると、特殊な上流階級が上菓子として独占するところとなった。

●名前の由来は安土・桃山時代の頃、南蛮菓子の一種類として長崎で生れた花林糖(花林の木の色に似ている)と「かりかり」と言う鳴音をそのままに「かりん糖」と名付けたという二説があるが両説を裏ずける資料はない。だがいつの間にかカリントウが定着した。

●徳川3代将軍家光の頃から5代将軍綱吉の頃(1623年~1709年)にかけて、カリントウは江戸へもたらされ、江戸は京菓子全盛期を迎える。

●知性・趣味の異なる江戸人は京菓子にあきたらず、庶民の味として享保2年(1717年)長寿寺桜餅、金つば、大福などを創作した。享保年間幕府の政治改革のあおりを受け、白糖は上菓子のみ、街頭で売る駄菓子(カリントウなど)には黒砂糖のみが許可された。

●明治8年になって東京の浅草仲見世の飯田屋が棒状のものに黒砂糖をつけたものを売出して大評判をとり、やがて日本中に広がり日本を代表する駄菓子となった。

●遠く7世紀に中国大陸から伝来したカリントウは庶民の味としてこれからも多くの人達によって愛され続けていくだろう。カリントウばんざい!

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